悪魔の泉






 静かな泉。
 深い森の中の、そのまた奥に、澄んだ泉がひっそりと水を湛えています。
 ですが、近くの村の人は誰も近づこうとはしません。

 「あの泉には悪魔が棲んでいる」

 皆、そう言うのです。
 だから、ここ数年は一人として泉に行った者はいませんでした。



 「よいしょ・・・」
 その日、マトリスはいつものように水を汲み上げて、洗濯をしてまいした。
 彼女は幼い頃に山火事で両親をなくし、ひとりぼっちです。
 友達もいません。

 「よぉーマトリス」
 「服をきれいにしたって、お前の顔はきれいにならないぜー」

 数人の青年達が通りがかりにそんな言葉を残して行きます。

 「・・・・・・」

 もう慣れた事・・・とはいえ、マトリスはぎゅっと唇をかみしめます。
 マトリスの顔には、深く醜い傷跡がありました。
 何年も前に起きた山火事の時についたものです。
 今でも、マトリスを必死で助けた両親の姿は覚えています。
 それでも、考えてはいけない事はわかっていても、あの時両親と死んでいれば。
 こんなにもつらい思いをしなくてもすんだと思ってしまいます。

 「・・・う・・・」

 自然に涙が溢れてしまいます。
 幸せになれなくてもいい、せめて人並みに暮らしたい。
 それがマトリスのたった一つの願いでした。




 ある日の事。
 木の実を採りにマトリスは山に入っていました。

 「すっかり、遅くなっちゃった」

 もう日が暮れようとしています。
 明るかった太陽も、すっかり赤く染まっています。

 「早く帰らないと」

 木の実の詰まった袋を背負いなおして、マトリスは村へ足を向けました。
 その時です。

 「・・・・・・?」

 マトリスは立ち止まり、耳を澄ませます。

 「歌・・・?」

 たしかに歌が聞こえます。
 聞いたことのない歌ですが、とてもきれいな声です。
 マトリスの足は自然と、そとらに向きました。

 「暗くなる前に帰れば大丈夫だよね」

 そんな風に自分を勇気づけて、マトリスは奥へと進みます。
 どれほど歩いたでしょうか。
 歌がはっきりと聞こえるようになってきました。

 「ここらへん?」

 大きな茂みを越えると、そこには泉がありました。

 「・・・・・・悪魔の泉・・・」

 いつの間にか、こんな所へと出てしまったのです。
 すぐに引き返そうとしたマトリスですが、その泉のほとりに人影を見つけました。
 倒れた巨木に座っているその人は、男とも女ともつかない姿をしていました。

 「悪魔・・・」

 人ではありません。
 その証拠に背に羽根があります。
 白鳥のように純白の羽根と、鴉のように漆黒の羽根が。
 それでも、マトリスはきれいだと思いました。
 しばらく、悪魔の歌に聞き入っていると。

 「おや・・・?」

 と、悪魔がマトリスを見つけました。
 急いで逃げようとしたマトリスですが、足がすくんで動けません。
 ゆっくりと近づく悪魔。
 ただ震えるだけのマトリス。
 やがて、悪魔がマトリスの前まで来ました。
 その白い手がマトリスの肩に触れます。
 もう終わり。私は魂を取られて死んでしまう。
 そう思った時。

 「迷ったのかい?」

 とても優しい声でした。
 ふと顔をあげると、悪魔はにっこりと笑いました。

 「ふもとの村の子だね?」

 マトリスはうなずきます。
 まだ声は出ません。

 「迷ったの?」

 もう一度、たずねてきた悪魔にマトリスはいいえと言いました。

 「きれいな歌が聞こえて・・・」

 悪魔はにっこりと笑いました。

 「ありがとう」

 と言いました。そして。

 「君さえよければ、もっと聞いてくれないか? 一人で居ると寂しいから」

 マトリスは耳を疑いました。
 悪魔が寂しいと言ったのです。
 それでも。

 「はい」

 恐くないと言えばウソになります。
 でもマトリスは、歌が聞きたいと思いました。

 「じゃあ、こっちへおいで」

 悪魔は包み込むようにマトリスの手をとり、さっきの巨木へと導きます。
 マトリスはそこへ悪魔と並んで座りました。

 「そう言えば、名前を聞いていなかったね」
 「マトリス・・・と言います」
 「いい名前だ・・・じゃあ」

 少し照れくさそうに、悪魔は歌い始めました。
 その詩は、ヘルネという少女の物語でした。
 歌の中でヘルネは好きな人と結婚して、子供を産んで、暮らしていました。
 とても幸せな歌です。
 でも・・・歌う悪魔の声は、どこか哀しいものでした。
 悪魔の歌は、ずっと続きました。
 やがて。
 空がうっすらと白み始めた頃。

 「ありがとう、僕に付き合ってくれて」

 マトリスはこちらこそ、ありがとうとお礼を言いました。
 悪魔は少し考えて、

 「今夜のお礼に何かしてあげたい。何か望みはない?」

 マトリスの体がわずかに震えました。
 悪魔は願いと引き替えに魂を抜き取ると言います。
 それでも・・・

 「・・・この顔を・・・美しく」

 それを聞いて悪魔はなんともいえない表情を浮かべました。
 まるで泣くまえの子供のように。

 「・・・君が望むなら」

 悪魔はそう言うと、何事か唱えました。
 その途端に、泉が光輝きます。

 「その泉に自分の姿を映して」

 マトリスは言われるままに、泉のはしに座り込みます。
 おそるおそる、顔を水面へと向けました。
 すると、どうでしょう。
 映っマトリスの顔は火傷の跡など少しもなく、代わりに美しい姿がありました。

 「どう・・・?」
 「悪魔さん・・・」
 「とても美しいよ、マトリス」
 「ありが・・・とうございます・・・」

 マトリスは泣きました。
 これでもういじめられる事はなくなったのです。
 マトリスは悪魔に別れを告げて、村へと帰りました。

 「彼女も・・・今までと同じように・・・」

 悪魔の呟きは、誰の耳にも届く事はなく虚空へと消え入りました。





 マトリスが村に戻ると皆が驚きました。
 昨日まであんなに醜かったマトリスが、とても美しくなって帰ってきたのです。
 それからというもの、マトリスをいじめるものは誰もいなくなりました。
 それどころか、たちどころに近くの村々にまで評判の美しさとなりました。
 マトリスは幸せでいっぱいでした。
 そんな暮らしが続いていたある日。

 「マトリス」
 「え?」

 声をかけてきたのは、リーゼという娘でした。
 マトリスが悪魔と過ごした前夜まで、村で一番美しかった娘です。

 「私ね、今度結婚するの」
 「ほんとに? 相手は?」

 リーゼの口から出た名前は、マトリスも知っている人でした。
 隣の村の青年で、たまにこの村にも来ている狩人です。
 とても凛々しく、醜かった頃のマトリスにも優しかった人です。
 彼に何度はげまされたか、数え切れません。
 そして唯一マトリスが好きになった人です。
 しばらく姿を見せないと思っていたと思っていたら・・・

 「・・・・・・」
 「どうしたの?」
 「あ・・・ううん、なんでもない、おめでとう」
 「うん、ありがとう」

 その晩、マトリスは考えていました。
 リーゼよりも私の方がきれいなのに。
 ずっとずっと苦労してきたのは私。
 それに比べてリーゼなんて、いつだって幸せだった。
 なんであの子だけいつも幸せなの?
 こんなの不公平よ。
 それにあの人だって、今の私を、きれいになった私を見れば。
 リーゼなんてやめて、私と一緒になろうって言うに決まってる。
 今までずっと不自由なく過ごしてきたリーゼなんだから・・・
 
 「これからは私の方が幸せでもいいはずよ!」

 マトリスはそう言うと、出かけました。
 悪魔の泉へと向かったのです。

 「今よりももっと・・・もっときれいになっておけば、リーゼなんて」

 うる覚えの山道をかけるように進むマトリス。
 やがて、あの歌が聞こえてきました。
 間違いなく悪魔の歌です。

 「悪魔さん!」

 泉のほとりには、あの時と同じように悪魔が巨木に座って歌っていました。

 「やぁ、マトリス。歌を聞きに来てくれたのかい?」
 「そうじゃないの、お願いがあるの」
 「え?」

 マトリスは悪魔に近づき、その瞳を悪魔に向けます。

 「マトリス・・・やはり失ってしまったんだね」

 悪魔はマトリスから目をそむけました。

 「え?」
 「なんでもないよ。それでお願いというのは?」
 「もう一度・・・泉に私の姿を映したいの!」
 「・・・・・・」

 名にも言わず悪魔はあの時と同じように呪文を唱えました。
 泉が輝き始めます。

 「これでリーゼなんて!」

 駆け出し、マトリスが泉にその姿を映した時。

 「・・・・・・なによ・・・これ・・・」

 そこにはかつてのマトリス・・・いえ、それ以上に醜い姿がありました。

 「悪魔さん!?」

 振り返ると、悪魔は哀しい顔で言いました。

 「その泉は心を映す泉。美しい心の持ち主ならば美しい姿に・・・」

 マトリスはハッと気づき、呆然としました。

 「醜い心の持ち主ならば、それ相応の姿へと変える鏡のようなもの」
 「そんな・・・・・」
 「あの時の君はとても美しかった。悪魔は容姿でなく、魂で人を見る・・・」

 でも今は・・・と言いかけて悪魔は口を閉じました。

 「そんな・・・そんなぁ・・・・」











 静かな泉。
 深い森の中の、そのまた奥に、澄んだ泉がひっそりと水を湛えています。
 ですが、近くの村の人は誰も近づこうとはしません。

 「あの泉には悪魔が棲んでいる」

 皆、そう言うのです。
 だから、ここ数年は一人として泉に行った者はいません。

 今日も悪魔はたった一人で歌を歌っています。
 その歌の詩は、マトリスという名の少女が幸せに暮すというものでした。
 ただ一人、悪魔は歌い続けます。
 哀しい歌声で。





悪魔の泉 END






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