繰り返しの日々。
 学校へ行って、勉強をして、帰宅。
 いい大学に入って、いい会社に入って、いつかは嫁ぐ。
 
 先の見えた人生と、それを否定できなくなった大人の自分。
 子供の頃のように、夢の中で泳ぐこともできなくなった今。

 乾いた興味と色あせた好奇心。
 何もかもが無意味で、無価値に思えて。
 歯車の狂った時間の中、時計だけが一秒、また一秒と動きつづける。
 戻らない時間を惜しいと思うだけの感情もない。
 早く時がすぎればいい。
 全ての時間が過ぎ去って、いつか死ぬ日まで。
 何もいらない。何も求めない。
 何かを欲すれば、ひかれているレールすらも失う。
 それがずっと教えられてきたこと。

 けれど死ぬほどの理由はない。
 生きたいと思える理由もない。

 だから私は、ただ時間が過ぎるのを待つ。

 恋をすればいい。
 愛を知ればいい。

 にこやかな笑顔で言う友人達。

 大切なものを探しなさい。
 自分をもっと愛しなさい。

 諭すように笑顔で言う大人達。 


 どれもこれも。


 私は知りたいだけ。
 私が生きてる意味を。
 私の生まれた意味を。
 満足できる答えじゃなくてもいい。
 納得できなくても確かなものなら。

 それだけで、私は。





赤いカーネーション






 いつもと変わらない帰り道。
 下を向いて歩く私。
 伸びている影の先にあるのは、やはり変わらない日常。

 「・・・」

 転がっている石ころを軽くける。
 カラカラと音をたて、アスファルトを少し転がって止まる。
 一歩、二歩と歩いて。

 「・・・」

 さっきの石ころの前まで来て、私はもう一度ける。
 またカラカラと転がっていった。

 「・・・」

 小さな風が吹く。
 夕日に乗った風は少しだけ暖かい。
 まどろみを誘うその風の中で、私は歩きつづける。
 春と夏の間のあいまいな季節。

 「春が終わって、来るのは決まって夏。当たり前よね」

 どうでもいい事。





 いつもの帰り道。
 交通量の多い交差点。
 信号が青になり、その先には小さな公園。
 子供達の声が一つ、二つ聞こえてくる。
 そしてベンチには男の人が一人、座っている。

 「・・・」

 私はそれを横目に公園の中を横切る。
 いつもと変わらない光景。
 足を止める理由も、それだけの理由もない。
 明日も、明後日も続く光景。
 だから今日、足を止めなくてもいい。
 いつか止める時が来た時に止めればいい。
   
 「いたーい!」

 ふと足が止まった。
 振り返れば、砂場で遊んでいた女の子が泣いていた。
 隣で同じ年頃の男の子が、ふくれた顔をしている。

 「ナミがいけないんだぞ!」
 「違うよ、コウちゃんが悪いんだよ!」
  
 子供のケンカ。
 
 「ナミだ!」
 「コウちゃん!」
 
 と、男の子が小さな手を振り上げた。
 
 「ああーん! またぶったぁ!」
 「ナミが悪いんだ!」
 「あたし、悪くないー!」

 小さなケンカ。
 小さい手で叩かれて、小さい涙を流す、小さい女の子。
 小さい痛みに女の子が頭をおさえている。
 けれど、その悲しみまで小さいわけじゃない。
 
 「ナミが悪いの!」
 「コウちゃん!」

 気丈な女の子。
 また叩かれるに違いないのに。
 私は止めた足を砂場に向けた。
 
 「コウちゃんのバカ!」
 「言ったな!」

 やっぱり。
 私は少し走って。

 「えっ?」

 男の子の振り上げた手をつかんだ。
 でも。
 それは私じゃない、大きな手だった。

 「ダメだろ。男の子がなんども女の子を・・・いや、一度でもダメなんだけど」

 大きな手。それはベンチで座っていた男の人だった。

 「だってナミが!」
 「だって・・・じゃない」

 あくまで男の人は優しく。

 「どんな理由があっても男は女の子を叩いちゃいけないんだよ?」
 「だって!」
 「だって、はないの」
 「・・・」
 「さぁ、ごめんなさいだ」
 「イヤだ、ナミが悪いんだ!」
 「でも、叩いちゃいけないんだ。男の子だったら」
 「・・・そんなの、男が損だよ!」

 それを聞いて、さも面白そうに男の人が笑う。
 ポンポンと男の子の頭をなでて。

 「そうだね。男は損なんだ。でも、君は男の子だろ?」
 「・・・うん」
 「男の子は強いんだ」
 「・・・うん」
 「だったら、女の子を守ってあげないと」
 「・・・」
 「女の子を叩くのは、男の子のすることじゃないぞ」
 「・・・・・・」

 その小さい男心に感じるものがあったのか。
 男の子は急にしんみりとなる。
 そして。
 
 「・・・わかった」
 「うん。謝るのも勇気がいるんだ。そうやって強くなっていくんだよ」
 
 見ればナミちゃんという女の子は、ジッと男の子を見ていた。
 もう泣いてはいない。
 男の子が近づき。

 「・・・ゴメン。もう叩かない」
 「・・・うん。あたしもゴメンね、コウちゃん」 
 
 男の人はそれを見て、笑顔を浮かべる。
 
 「子供は仲良くしなくちゃな」
 
 そう言って、もとのとおりベンチに戻っていく。
 手に小説やウォークマンを持っているわけでもない。
 ただ、その人はベンチに座って空を見ていた。
 時折、砂場の子供達の笑い声に耳を傾けるようにしながら。
   
 「・・・」

 私はつられて空を見る。
 赤い夕日。
 バラのようでもあり、血のようでもあり、どちらでもない赤。
 何度も見てきた日暮れに感動はない。
 何もない空。
 何を見るというのだろうか。
 
 「・・・」

 視線を男の人に戻すと。

 「ボクの見ているものが気になる?」

 男の人は私を見ていた。
 笑顔。
 暖かさとは違う。なにもかも受け入れる、そんな笑みだった。
 
 「・・・少し」
 「座ったら?」
 
 その人は自分の横を指差す。
 ナンパ・・・にしては、そういう雰囲気がまったくない。
 別に用事もない。
 帰ってゴハンを食べて、テレビを見て。
 
 「じゃあ、ちょっとだけ」
 「どうぞ」

 腰を下ろす。
 目の前では、さっきの子供達が大きな山を作りはじめていた。

 「・・・」
 「・・・」

 何かを話し掛けてくるわけでもない。
 ただ空を見ている。
 私も自然と空を見上げている。
 何もない空に、赤い陽が沈んでいく。
 
 「・・・綺麗だね」
 
 ポツリと呟いた男の人。

 「そうですか・・・?」
 「うん」
  
 横を見れば男の人の笑顔は陽光で赤く染まっている。
 
 「楽しそうですね?」 
 「楽しいよ」
 
 本当に楽しそうに。
 そして。

 「嬉しいよ」

 嬉しそうだった。
 なぜ?

 「君は違うの?」
 「別に・・・私は楽しくも嬉しくもないですよ」
 「そうか。そうだね」
 「・・・」

 変わった人。

 「君、よくここを通るよね」
 「ええ・・・近道ですから。あなたもよくここに座ってますね」
 「うん」

 1ヶ月くらい前から、ベンチにこの人は座っていた。
 気づいたのが1ヶ月前だから、本当はもっと前からかもしれない。

 「夕日が見たくてね。ずっと座ってる」
 「そうなんですか・・・」

 学生かもしれない。
 仕事をしているかもしれない。
 
 「ボクはヒマだから。だから好きなことに時間を使うんだ」 
 「・・・」
 
 熊のプーさんか。
 学校の教師達から言えば、レールを外れた人の姿。
 でも。

 「楽しそうですね」
 「うん。楽しいよ」

 本当に楽しそうに答える。
 こういう生き方もいい。
 だけど、私にはそんな度胸はない。
 
 「聞いていいですか?」

 楽しい。
 その言葉に、ふと思った。
 浮かんだのは率直な問いかけ。

 「なに?」

 相変わらず空を見上げたまま。
 その横顔に私は。

 「今まで生きていて、一番楽しかったのっていつですか?」
 「面白い事を聞くね」

 空から私に視線が降りてくる。

 「そうですか?」
 「うん」
 「なぜですか?」
 「誰だって同じだと思うから」
 「じゃあ、子供の頃?」
 「君はそうなの?」

 意外そうに。

 「ボクは今が一番楽しい。いつだって『今』が楽しいよ」
 「・・・」
 「過去も楽しかったけど、今にはかなわない。そして未来よりも今が楽しい」 
   
 面白い事をいう人だった。
 みんな昔は良かったという。
 もしくは未来に希望を求める。
 けれど、この人は今がいいと言った。

 「どうしてですか?」
 「そうだね・・・過去は感じることができない。未来も同じ」
 「・・・」

 感じる・・・?

 「だけど『今』は自分の体で感じられる。ここにいる自分と、他の全てを」
 「・・・」
 「どんなものも『今』から始まる。出会いも別れも、なにもかも『今』から始まるから」

 今、君と出会えたようにね、と男の人がつけくわえた。
 割り込んで、私の口が動く。

 「・・・別れも楽しいんですか?」
 「そうだね。きっと悲しいね」
 「でも、さっき・・・」

 男の人は笑顔のまま。

 「過去に愛する人と出会った時よりも。未来に出会うだろう愛する人との出会いよりも」
 「・・・」

 一度だけ、息を吸って。
 笑顔だけがそのままで。

 「『今』愛している人との別れの方がボクは好きだよ」

 私にはとても理解できなかった。
 哲学というにはあまりにも、有りのままの言葉で。
 伝えたいこと、それだけを伝える言葉だったから。
 私にはとても理解できなかった。
 
 「それがどんなに苦しい悲しみでも。胸に穴があくほど辛くても・・・」
 「・・・」
 「それを感じられることは、とても幸せなことだと思うから」
 「・・・」
 「だからボクはいつだって『今』が楽しい」
 「・・・」
 「『今』感じられることに、喜びと悲しみの違いなんてないんだよ」
 
 こんな事をいう人は、今まで私の間よりにいなかったと思う。
 誰かの言葉を借りて、もっともらしく言う人はいた。
 難しい言葉を飾り立てて、誇らしげに言う人もいた。
 だけど、この人は違う。
 自分で見つけた答えを持っていた。

 「ははは。ちょっとカッコつけすぎたかな」
 「いいえ、そんなことないです。素敵な答えでした」
 「そう? ありがとう」

 でも。
 悲しみも喜びも同じように受け入れる。
 そんなことは私にはできないと思う。
 小さすぎる私の心では。

 「・・・」

 夕暮れに染まった笑顔のままで、その人は再び空を見上げる。
 私も同じように見上げた。

 「・・・」

 空には、さっきと同じ夕日があった。

 「・・・綺麗ですか?」
 「うん、綺麗だよ」

 私には、見慣れた夕日。
 この人が見ている夕日と同じ。
 けど、どこか違う夕日だった。

 
 


 帰宅して。
 私は部屋に入り、今日の事を思い起こす。

 「・・・」

 不思議な人だった。
 ベッドに転がり、CDをかける。

 『初めて出会ったときから感じていたよ・・・』 

 流れ始めたのは、少し前に流行ったラブソング。

 「・・・」

 面白い事を言う人だった。
 ボーカルの低い声が部屋に響く。

 『ボクが君と出会ったのは、運命だったと・・・』
 「・・・」

 そして心の大きな人だった。
 窓の外はもう暗い。

 『ボクと君が出会ったのが、宿命だったと・・・』
 「・・・」

 少なくともあの人は、私のように生きる事に疑問を持っていない。
 『今』という一瞬を楽しんで生きていた。
 起こった事を受け入れて、悲しみすらも楽しいと言えるほどに。
 
 『だから笑うよ、ボクは願うように・・・』
 「・・・」

 うらやましい。
 そう思う。
 強いと思う。
 誰だって、一度は自分の存在に疑問を持つはず。
 自分のやっていることに意味はあるのか?
 自分はなぜ、こんな事をやっているのか?
 そうやって、答えの見つからない問いを続けて。
 見つからない答えのために、ずっと悩み続けて。

 『何もいらない、何もいらない、だから・・・』
 「・・・」

 いつしか、それすらも考えなくなっていく。
 それが私にとって、大人になっていくという意味だった。
 でも、あの人は違った。

 『悲しい別れが永久にこないように・・・』
 「・・・」

 友人達が言ったように。
 恋を知れば、そうなれるのかもしれない。
 愛を持てば。
 先生達が言ったように。
 自分を大切にすれば、そう思えるようになるのかもしれない。
 大切だと思うならば。

 『出会いの喜びだけで、ボクの心が満たされるように・・・』
 「・・・」

 考えても私にはわからないこと。
 たとえ、その答えをあの男の人から聞いたとしても。
 自分で得た答えでない限り、私は納得できないだろう。

 『ずっと君のそばにいたいから・・・』
 「・・・」

 あの人が自分で見つけた答えと、私の求める答えは違う。
 もしかしたら同じかもしれない。でも違う。
 問題なのは、答えじゃないと知っているから。
 自分で見つけるべき何かが答えだと知っているから。   

 『いつまでも、君の笑顔を見ていたいから・・・』
 「・・・」

 心に感じて、身にしみていく答えがほしいのだから。
 確かな何か。
 どんな喜びにも悲しみにも、それ意外のどんなものより。
 確かな何かが。

 『ボクは願うよ、空に・・・』
 「・・・」

 窓の外の星空は、ただ輝くだけで何も言わない。

 『今がずっと続くようにと・・・』

 ラブソングの詩が、妙に滑稽に感じた。

 『今がずっと続くようにと・・・』

 リフレインされるフレーズ。
  
 「出会いがあるのに・・・別れがないはずないじゃないの・・・」

 誰に告げたかもわからない私の呟き。
 





 学校からの帰り道、いつもと変わらない道をたどっていく。
 アスファルトの固い感触。
 何かもかもが繰り返しの毎日。
 たとえ環境が変わっても、本質は変わらない。
 ただ一つ。
 いつもと違うこと。

 「やあ」
 「こんにちわ」

 私はいつものように彼の横へと腰を下ろす。
 初めて会ってから一週間が経った。
 学校の帰り道、彼はいつも座っていた。
 だから私はその横に座って。
 それを繰り返している。

 「今日はいい天気だね」
 「はい」 

 だけど、それは無価値な日常じゃない。
 同じ事を繰り返しているのに、そう思えた。
 それは私がそうしたいと思うから。
 誰かに言われてじゃない。
 そうしなくちゃいけない理由もない。
 だから。 

 「気持ちいいですね」
 「うん、気持ちいい」

 私はここに座っている。
 そして空を見上げて。時折、砂場のケンカに微笑み。
 夕日が落ちる中で、静かに座っている。

 「そう言えば・・・」
 「はい?」
 「ボクは君の名前を知らない」
 「あ・・・」

 初めて気づいたように。
 そして私も気がついた。

 「ずいぶんと経つのに、お互い自己紹介してなかったね」
 「そうですね」
 
 彼はコホンと咳払いする。

 「ボクは高見。名前は七乃矢。ちょっと変わってる名前でしょ?」

 私は答えて。

 「私は美津です。名前は優実衣。少し変わってると思いませんか?」

 ユミじゃない。
 ユウミイ。

 「へぇ」
 「はい」
 「いいね」
 「そうですか?」
 「うん、いいよ」
 
 何がいいとか悪いとか。
 この人はきっと考えていないだろう。
 感じたままを言葉にしていると思う。
 
 「・・・」
 「・・・」

 どちらともなく言葉が止んで。
 私達は再び空を見上げる。
 赤い夕焼け。
 ひなたぼっこのような暖かさはない。
 お月見の、刺すような美しさもない。
 ただ、赤い。
 純粋にそれだけ。

 「綺麗だね」
 「そうですか?」
 「うん」

 まだ私にはわからない。

 「ずっとこうしていたい」
 「ええ、そうですね」

 でも、それは同じ気持ちだった。
 七乃矢さんの言う、綺麗さがわからなくとても。
 私は今、とても気持ちいい。

 「できるならば、この先もずっと・・・」

 ・・・?

 「・・・」

 一瞬、微笑みに暗い影が落ちた。
 今まで見たことのない表情だった。
 それもつかの間。
 七乃矢さんの微笑みはいつもの笑顔に戻る。
 何もかも受け入れた、大きな笑みに。
 やっぱり、この人は。

 「大きいですよね」
 「夕焼けかい?」
 「いえ。七乃矢さんの心がです」
 「そう思う?」
 「はい、大きいです。私は小さいです」
 
 七乃矢さんは笑う。

 「大きいもの。小さいもの。どちらも同じだよ」
 「違いますよ」
 「うん。違うね」
 「・・・」

 私は静かに次の言葉を待つ。
 出会った時もそうだった。
 七乃矢さんは不思議な言いまわしをする。
 それは七乃矢さんが、物を一面で見る人じゃないから。
 いつも色んな方向から物を見ている人。
 そして、そのどれも受け入れる人だから。

 「大きい、小さい。でも、それは本当にそうだとは限らない」
 「・・・」
 「小さくても強いもの。大きくても脆いもの。たくさんあるんだ」
 「・・・」
 「そして強いより脆い方がいい時だってある。大きいよりも小さい方がいい時も」
 「・・・」

 難しい言葉だった。
 理解するには時間がいるかもしれない。
 ただ漠然と、それが間違っていることではない感じられる。
 七乃矢さんが見てきた今までのものが、その言葉に詰め込まれているから。  

 「特に人の心はね」
 「・・・やっぱり七乃矢さんは大きな人です」
 「そうかな。ありがとう」
 
 笑みはあくまで優しさではない、受け入れる大きさ。

 「・・・」
 「・・・」

 私達は空を見ている。
 二度と同じ夕暮れはない今。
 それでも日は明日も、その先も夕暮れは続くだろう。
 その違いは、まだ私にはわからない。
 けれど。
 
 「綺麗だね」
 「・・・」

 聞き返す事はしなかった。
 ふと、それが感じられたから。
 夕焼けではない。七乃矢さんの瞳。
 そこに映った夕焼けは、確かに綺麗だったから。

 「・・・」
 「・・・」

 やがて夕日は沈む。
 あたりが暗くなって。
 訪れるのは夜。
 
 「じゃあ・・・」
 「うん。またね」
 「はい」

 自然と私は腰を浮かす。
 決めたわけじゃない。
 これが私達の別れだった。
 このまま夜の星を見ていてもいい。
 それでも、私はいつも七乃矢さんよりも先に立つ。
 七乃矢さんが私を見送って。
 その後、彼がどうしているかは知らない。
 すぐに立ち上がって帰るのか。
 それとも、しばらく星を見つづけているのか。
 だから私はまだ夕暮れの下でしか七乃矢さんを知らない。
 それでいいと思う。
 いつか、星空の七乃矢さんと出会う日まで。
 そして私はまだその七乃矢さんと会わないと決めている。
 夕暮れにある何かを見つけるまで。

 「・・・」
 「・・・」

 背後に七乃矢さんの息遣い。
 私は振り返ることなく歩いていく。
 一緒にいたいという気持ちがないわけじゃない。
 七乃矢さんの隣にいる時、私は私だけのもの。
 誰かに言われて何かをしている私じゃない。
 
 「・・・」

 公園を出て。
 ふと思う。
 恋。
 すぐに違うと思う。
 私には七乃矢さんが必要なわけじゃない。
 七乃矢さんにも私が必要なわけじゃない。
 七乃矢さんを知りたいという気持ちはある。
 けれど、それ以上に私は私を知りたいから。
 七乃矢さんと言葉を交わすたびに、私は私を知っていく。
 私が知っていた事と、七乃矢さんが知っている事。
 私が知らなかった事、七乃矢さんが知っている事。
 どれもが、私に私を教えてくれる。
 それはどんな事よりも、気持ちがいい事だった。
 だから一緒にいたいと思う。
 七乃矢さんの笑顔がずっと夕暮れに向けられている。
 その微笑を一人占めしたいとは思わない。
 ただ、その瞬間、隣にいたいだけだから。

 「・・・」

 恋じゃない。
 不思議な気持ちだった。
 これが恋なのかもしれない。
 でも、恋とは言えない何か。
 憧れ?
 違う。
 親しみ?
 違う。
 
 「・・・」

 不思議な気持ちだった。





 「ね、ユーミー」     
 「え?」

 授業が終わって、帰り支度をしていたとき。
 後ろの席から聞きなれた声がかかる。
 真理子だった。

 「なに?」
 「なに? じゃないわよ。忘れたの、今日の事」
 「今日・・・」

 なにかあったかな?

 「はぁ・・・あんたって昔からボーっとしてるというか、なんというか・・・」

 中学からのつきあいだけあって、そのため息にも年季が入っている。
 
 「少し前に言ってたじゃない。コンパやるからおいでって」
 「あ・・・今日だっけ?」
 「はい、今日ですよ」
 「うん」
 「はぁ」
 
 呆れ顔の真理子。

 「まーいいわ。とっとと行くよ。他のメンバーも今ごろ、校門のトコに集まってるはずだから」
 「うん」
 「じゃ、行こ」

 コンパ。
 確か二週間くらい前に約束した気がする。
 実のところ、あんまり覚えていない。
 けど、別にする事もないから構わないけど。

 「あ・・・」
 「どした?」
 「・・・ううん、なんでもない」
 「ん?」

 じゃあ、今日は七乃矢さんに会えないのか。
 
 「行くよ」
 「あ、うん」

 

 
 
  
 連れて行かれた先はカラオケボックス。
 真理子と私の他には三人の女の子。
 みんな知らない子達だった。
 やがて。
 
 「みんな、男の子たち、今ついたってー」

 真理子が携帯を手にして言う。
 みんなの雰囲気がうわつく。
 私はそれを聞きながら、ただ窓の外を見ていた。
 夕暮れにはまだ時間がある。
 晴れた空。
 七乃矢さんはもうあの公園にいるんだろうか?
 
 「こんにちわー」

 と、部屋のドアが開いて男の子達が入ってくる。
 人数は同じ五人。
 広めの部屋といえど、十人ともなればいっぱい。
 ソファも詰めて座らないと、全員が座れない。

 「あ、そこ詰めて・・・」
 「はい」

 言われて私は真理子の横へ。

 「ユーミー、なにやってんの?」
 「え?」

 隣から真理子が耳元で。

 「コンパなんだからさ、男女交互に座りなよ」
 「あ、そうなの?」
 「そうなの。それとも気に入った男いない?」
 「・・・」

 あらためて男の子達を見る。
 視線を真理子に戻して。

 「どの人がいいの?」
 「・・・あんたさ、やっぱりどっか抜けてるわ」
 「そう?」
 「もういい。私にまかせなさいな」
 「うん」

 真理子が立ちあがり、うまく仕切る。
 そして。

 「あ、こんちわ。はじめましてー」

 私の横に座った人が挨拶してくる。
 
 「はい。こんにちわ」
 
 髪の毛がツンツンで茶色だ。
 七乃矢さんは真っ黒だったっけ。
 あ、指輪してる。大きくて重そう。

 「ちわー」

 と、反対からも声がかかる。

 「はい。こんにちわ」

 髪が私よりも長い。サラサラだ。
 でも七乃矢さんよりも、ちょっと貧弱。

 「・・・」

 さっきから七乃矢さんに比べてばかりだ。
 なんでだろう。

 「一番、いっきまーす!」

 真理子がマイクをとって歌い始めた。
 立ち代りいれ変わりで、順番が回っていく。

 「あ、俺、内藤っての。よろしくねー」

 ツンツン茶色の人。

 「俺は村野。よろしくー」

 髪の長い人。

 「私、美津です。はじめまして」

 妙に話しかけてくる人達。
 ツンツン茶色の人が。

 「美津ちゃん? それって名前?」
 「いいえ。性です」
 「名前は? 教えてよ」
 「優実衣です」
 「へー変わってるね」
 「はい」

 今度は髪の長い人。

 「なんかボーとしてるね、よく言われない?」
 「はい。言われます」
 「ははは、いいねー、そのキャラクター」
 「そうですか?」
 「うん、好きだなー」

 と、今度はツンツン茶色の人。

 「ね、ね、彼氏とかいるの?」
 「いないです」
 「へー。可愛いのにねー」
 「そうですか?」
 「うん、俺、君みたいな子、好みだよ」
 
 よくしゃべる人。
 
 「ねぇ、一緒に歌わない?」

 髪の長い人が言う。

 「私、最近の歌って知りませんよ?」
 「何でもいいよ。一緒に歌おうよ」 
 
 そこへ真理子が。

 「ユーミー、一緒に歌おー」
 「あ・・・」
 「ほらほら」

 手をひっぱられて、前に出される。

 「これ、知ってるでしょ?」
 「あ、うん」

 イントロは知っている曲。

 『ボクが君と出会ったのは、運命だったと・・・』

 少し前に流行ったラブソング。

 『ボクと君が出会ったのが、宿命だったと・・・』

 私も真理子に合わせて歌う。
 歌詞の出るテレビには、一組の恋人が踊っている。
 空は夜。星空の下で。

 『ずっと君のそばにいたいから・・・』

 真理子はこの曲が好きだと前に言っていた。
 その影響で私も聞いていた。

 『いつまでも、君の笑顔を見ていたいから・・・』

 恋の詩。
 それはどこか無機質に感じられる。
 前はそうじゃなかった。
 でも、今の私には滑稽に感じる。

 『ボクは願うよ、空に・・・』
 
 それは造られた感情だからだと思う。
 歌を作るために造られた恋だと感じられる。

 『今がずっと続くようにと・・・』

 この部分。

 『今がずっと続くようにと・・・』

 リフレインされるフレーズ。
 そこには、嬉しさも悲しさも感じられなかった。
 歌い終わって、真理子が耳元で囁く。
 
 「ユーミー、人気あるみたいだよ」
 「え?」
 「向こうの友達から聞いたけど、一番人気だって」
 「・・・何が?」
 「ま、いいわ。がんばってね」

 席に戻ると。

 「美津ちゃん、歌うまいねー」
 「そうですか?」
 「うん。きれいな声だし」

 茶色ツンツンの人が私を拍手で迎えてくれた。
 
 「ラブソング好きなんだー?」

 髪の長い人。

 「そういうわけじゃないですけど」
 「でも、すごい良かったよー」

 その後、私は二人の男の人と一緒に歌って。
 賑やかな空間の中で私は日常を感じていた。
 何も変わらない。
 何も意味のない。
 退屈すらも感じない日常。
 こんな『今』でも、七乃矢さんは楽しいというだろうか?
 少なくともわたしには、楽しいとは思えない。

 「・・・」

 窓から差し込む夕日。
 その赤い光を浴びても、私は日常の中にいた。
 七乃矢さんが隣にいなければ、私はやはり日常から逃れられない。  
 少なくとも、今の私はそうだった。

 「じゃあ、そろそろ時間だからー」

 真理子がみんなにそう言って。

 「じゃあ、次行く?」

 男の人の誰かが言った。

 「どうする?」
 
 真理子が私達に問い掛けて。
 他の三人は行くらしい。
 私は。
 
 「まだ日は落ちないかな・・・」

 隣で、ツンツン茶色の人が。

 「そうだよ、まだ大丈夫だって」
 「行こうよ。これからもっと楽しくなるって」

 私は真理子に。

 「私、もう帰るね」
 「ユーミー、帰るの?」
 「うん。まだ間に合うと思うから」
 「え?」
 「あ、ううん。なんでもない」

 私はカバンを持って、両隣の二人にペコリと頭を下げる。

 「じゃあ、これで」
 「あ、待ってよ」
 「はい?」
 「これ」 
 
 小さく折りたたんだ紙を差し出す。

 「あ、俺のも」

 私の手に二つ、紙が乗せられた。

 「はぁ・・・じゃあ、これで」
 
 カラオケボックスを出て。
 私は持たされた紙を広げてみる。
 どちらも電話番号の書かれた紙だった。

 「・・・」

 私はもとのように折りたたんで。
 すぐそばにあったゴミ箱へ放り込んだ。
 日常はいらない。





 「・・・」

 交通量の多い交差点にさしかかる。
 その先の公園に視線を向けて。
 今日はずいぶんと遅くなった。
 別に待ち合わせているわけじゃない。
     
 「・・・」

 七乃矢さんはまだいるだろうか。

 「・・・」

 いる。
 公園から漏れる子供達の声。
 その姿を目で確かめる必要はない。
 七乃矢さんはきっと砂場の前で、空を見上げているだろう。
 ただ静かに、子供達の声を聞きながら。
 何もかも受け入れるような、あの笑みを浮かべているだろう。

 「・・・」

 なぜだろう?
 どうして私はこんなにも、七乃矢さんの存在を感じるのだろう?
 出会ってから一緒に過ごした月日は短い。
 それなのに、七乃矢さんは間違いなく私の心にいる。
 そして私の心の中でも、夕日を見ている。
 私が話しかければ、夕日を見ながら笑い。
 私が問いかければ、私に微笑んでくれる。

 「・・・」

 恋じゃない。
 不思議な気持ちだった。
 これが恋なのかもしれない。
 でも、恋とは言えない何か。
 憧れ?
 違う。
 親しみ?
 違う。

 「・・・」

 これは恋。 
 ただ私はそれを言葉にして、現実感を失うことが恐かっただけ。
 まだ『今』の全てを受け入れることのできない私の心。
 その臆病さが、私に恋と認めさせなかった。
 『昨日』を認めてしまえば、始まりを感じてしまえば。
 『明日』にも来るかもしれない終わりを感じてしまう。

 「・・・」

 だから私は『今』を否定していた、隠していた。
 七乃矢さんの中で見つけた私の『今』。
 始めて見つけた私だけの『今』。
 知ってからわかる『今』。
 
 「・・・」

 私は信号が変わったのを見て、歩道を渡り始める。
 七乃矢さんに会って、まず言うこと。
 こんにちわ。
 そして七乃矢さんは、遅かったね、とは言わないだろう。
 いつものように、やあと笑う。
 私はそんな『今』が好きだ。
 今ならはっきり言える。
 
 「・・・そっか・・・そうなんだ」

 唐突に悩みが氷解した。
 ずっと問いつづけてきた、終わりの見えなかった問い。
 私が生きてる意味。
 私の生まれた意味。 
 なんだ、そうだったんだ。

 「はは・・・なんだ、そうだったのかぁ」

 誰でも知ってる事なのに。
 今ごろ気がつくなんてね。
 七乃矢さんに会ったら聞いてみよう。

 『面白い事を聞くね』って。

 きっと七乃矢さんは言うだろう。

 私は「そうですか?」と答えて。

 『誰だって同じだと思うから』七乃矢さんの言葉を聞いて。 
 
 私は笑顔で言おう。

 「やっぱり、誰でも同じですよね」と。

 七乃矢さんは、空から私に視線を移す。
 そしていつものように、何もかも受け入れるあの笑顔で。

 『そうだよ』。そう言うに違いない。

 横断歩道が終わる。
 足元の白と黒の交互が途切れた時。

 「あ・・・」

 夕日の中で、なにもかもが赤く染め上げられた。






 「ねぇ、お兄ちゃん?」

 七乃矢の前で男の子がシャベルを持った手を止める。

 「なに?」
 「今日はあのお姉ちゃん、来ないね?」
 「そうだね」
 「お兄ちゃんの恋人なの?」
 「ははは、どうだろうね」

 女の子が。

 「コウちゃん、そんな事もわかんないの?」
 「なんだよ、ナミ」
 「子供なんだからー」
 「なんだよ、ナミだって子供だろ!」

 七乃矢は空を見つめる。
 あと何度、この空を見ていられるだろうか。
 そう多くはないだろう。
 残された時間は、あまりない。
 優実衣。
 彼女はとても純粋だと思う。
 生き方を探して、その生き方に疑問を持って。
 いずれ行きつく死を前に悟るだろう。
 自分と同じく、生きるということの意味を。

 「・・・」

 手を胸にやる。
 死の音がそこまで近づいている。
 もう長くない、自分の命。

 「・・・」

 もう少し自分の心が脆ければ良かった。
 恐怖で何も考えられなくなれたのに。
 あと少し自分の心が弱ければ良かった。
 恐怖で全てを捨て去れただろうから。

 「・・・」

 もうすぐ死ぬ。
 その心に芽生えた新しい感情。
 それはあまりにも残酷すぎるものだった。
 
 「ああーん、コウちゃんが蹴ったー!」
 「なんだよ、ナミが悪いんだよ、大人ぶるから!」

 七乃矢はふと笑う。
 受け入れることは簡単だ。全てを諦めればいい。
 そうすれば失った時、悲しみを殺すことができる。
 七乃矢はそれができた。

 「・・・」

 しかし、この感情を諦めることはできない。
 七乃矢の最期の心。
 激しさは失った心。
 優しさも捨てた心。
 だからこそ、なによりも大切な想い。
   
 「・・・『今』がずっと続けばいいのにな・・・」

 立ちあがって、七乃矢はケンカしている子供達の仲裁に入ろうとした。
 そのときだった。

 「・・・」

 公園の向こうから、激しい衝突音が響いた。 

 「なんだろ?」
 「わかんない」

 子供達が音の方へと視線を向ける。

 「・・・」

 何が起こったのか。
 ふと、感じられた。

 「・・・」

 こみあげる怒りはない。
 悲しみすらもなかった。
 全てを受け入れるために、全てを捨てた心だから。
  
 「・・・」

 ボクは空を見て、そして笑顔でいた。
 夕暮れに染まった赤い空。
 それは、何もない赤い空。
 彼女が来たら言おう。
 どんな言葉でもいい。
 心の中の想いを言葉にして伝えよう。 
 だから。
 
 「・・・」

 『今』のボクは『今』を受け入れられない。
 『今』だけは決して受け入れることはできない。
 『今』の悲しみを受け入れれば、ボクはボクでなくなるだろう。

 「お兄ちゃん?」
 「ん?」 
 「男の子は強いんだよ?」    
 「そうだね。強いんだよ」
 「じゃあ、泣いちゃダメだよー」
 「うん。そうだね・・・」
 
 そしてボクは公園を後にした。



 もう夕日は見ない。

 『今』を捨てて。

 『明日』も捨てて。

 死がボクを迎えるまで、ずっと『昨日』を見ていよう。

 それがボクの中に生まれた心を守る、ただ一つの方法だから。
 




赤いカーネーション  完






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