「次から次へと・・・面倒ごとを持ってきやがって」
隊長室。
開け放たれた窓から太陽をながめつつ、紅茶を飲んでいるのが、部屋の主である。
部屋の上座にある男の机の上には、ギルドから与えられた指令書が置かれている。
内容は雄火竜リオレウスの巣排除。ただし、添えられた地図の目撃地点には複数の印がある。
「五箇所を近日中、かよ。各印を移動するだけで五日はかかる」
討伐とその後の休息に一日、移動に一日。順調にいって約十日といった所だろうか。
「おい、メル。お前はどう思う? つまらん泥仕事には飽き飽きしないか?」
今まで無言で愚痴を聞き流していたのは、ラグダフルの横の机で紅茶を飲んでいた若い女性。
長い金髪を三つ網にした碧眼。美女ではあるが、厳しく結んだ唇は美貌よりも威圧感が勝る。
彼女は立場的にはラグダフルの補佐であり、ギルドからは黒服を与えられている。つまり部隊隊長としての権限を持つ者である。
メルと呼ばれた女性は、淡々と。
「つまらない、とおっしゃいますが・・・相手は雄火竜。危険度は低くありません。むしろかなり危険な任務です」
「はん? お前だったら楽勝だろう?」
「あらゆる物事に絶対や確実はありません」
「お前がミスした所なんて見た事ないがな」
「今まではそうでも、これからはわかりません。初めての失敗が死をもたらす事もあります」
少々、語句を荒げ、ラグダフルの目を見るメルミーユ。
しかしラグダフルは。
「あいかわらず考え方が硬いな。もう少し、なんとかならないのか?」
「命令とあれば。具体的にお願いします」
明らかに怒り顔のメルミーユにラグダフルは肩をすくめる。
「・・・では私は部隊の準備にとりかかります。出発は明日でよろしいですか?」
「明日? そんなに急ぐ事もないだろう?」
「こうしている間にも近隣の村は被害をうけているんです。明日でよろしいですね?」
「わかったわかった。好きにしてくれ」
手を軽く上げて、再び太陽を眺めるラグダフル。
その背をにらみつつ、メルミーユは隊長室から退室し、後ろ手にドアを閉めると。
「七光りめ。なぜあんな男が・・・」
と呟き、部隊の宿舎へと向かった。
ラグダフル=リスライン。
その功績はすばらしく、また自身も類まれなる剣の名手。
各地を転戦とし、数々の武勲をあげているギルドナイト。
と、いうものが表向きの風評であるが、実際に彼が剣を抜くところを見た事はない。
かと言って、指揮がとりわけ優れているというものでもない。
彼を一言で言い表すならば、白銀の一族リスライン家の長男。
今ならば、各地を転戦しているというのは、ただそれぞれの戦地で見限られ、体よく放逐されているだけともわかる。
しかし彼の立場やその家柄を考慮して『転戦』という扱いになっているのだろう。
彼がいわゆる親の七光り、通称『七銀』と呼ばれる要因の一つでもあり、それを人は陰で笑っていた。
天意無抱 〜シロガネ〜 (前編)
ラグダフルを隊長とし、副隊長兼補佐役のメルミーユが率いるこの部隊の名は『銀』。
竜の色を冠した部隊であり、ギルドの精鋭として名高い存在である。
中でも銀・蒼・赤は攻撃的な部隊であり、銀はその最高位である。また他にも似たような部隊はいくつか存在する。
対照的なものでは金・桜・緑。これらは防御的な行動に特化するよう構成されている。
しかし現在、これらの部隊は急速に数を減らしていた。
優秀な人材を集めて編成された部隊は強力であるがゆえに、困難な任務を課せられる。
当然、損害も発生する。しかし補充が追いつかず、部隊としての人数を維持できなくなってしまっていた。
以前は補充は無論、部隊の拡大すら可能であったが、現在のこの人材不足はギルドナイトの有り様に変化が起こったためだった。
まず現在の各国を二つに分けるならば、ギルド統治下か、そうでないか。
統治下でない国は、それぞれが自治している為、過度のギルドからの干渉を良くは思っていない。
またギルドとしても、要請があれば協力するが、逆に言えば独自の判断だけではそういった国での活動を自粛している。
不用意な接触は互いに利にならないと、過去の出来事から両者が理解している為である。
だが、ここで問題となるのは、野党などの犯罪者である。
ギルドの統治国で暴れ、ギルドの統治していない国に逃げ込む。こうなるとギルドナイトは動きを止めてしまう。
一部隊の隊長程度の判断で、国境を越えての追跡は不可能。
かと言って、権限のある人物に了解をとろうにも、それでは当然ながら遅すぎる。
これを防ぐためにギルドが打ち出したのは、国と国を結ぶ主要な道の監視である。
しかしこの方法には三つの問題点があった。
まず、人員を大量に必要とする事。
朝も夜も問わず、人員を置くとなると交代要員や住居、食料といった様々な負担が発生する。
しかも監視に必要な人数だけでは足りない。徒党を組んでの襲撃されるという可能性もあるのだから、最低一部隊は必要となる。
そうなると、隊長にはそれなりの経験を積んだ人物が必要となる。
これでかなりの人員がいくつもの部隊から引き抜かれる事となった。同時に部下には、卒業を認められた学園の生徒達が充てられた。
二つ目の問題点は、そこまでして巡回や監視を行っても、どうしても目の届かない部分ができてしまい、そこから抜けられるという点と、さらなる問題は戦闘による損害が大きいという事。
野党の中には元ハンターといった、戦闘に慣れた者も時にふくまれる。
部隊を率いるのが経験豊富なギルドナイトでも、従えているのは大半がまだ新人という編成があだとなる。
ギルドが創設した学園の生徒と言っても、実戦をくぐりぬけた一部のハンターには遅れを取る者が続出した。
無論、厳しい訓練を経て、急な事情があったといは言え、卒業を認められた生徒達は生半のハンターよりも格上と言える。
それでもなお、埋められないもの。それが命をさらした経験の量。
これにより、卒業生を安易に補充に向けるという事が見送られ、結局、現行のギルドナイトが充てられる事となり、本来の任務を行うギルドナイトは減っていった。
そして三つ目、これは政治的な問題。
ギルドが行う監視は、ギルド領地内で犯罪を行った者を逃がさない檻であるが、檻の外、つまり統治されていない国から見れば、自分達が監視、または危険視されているととられてしまった。
またそれ以外にも、国を行き来する人の数が減るという、交易に関する問題も同発した。
これは、国を行き来する商人が商売のタネにギルドナイトの事を大げさに吹聴したという経緯もあるが、それでも実際にギルドナイト達は不審と思えば、行き来する人々に対して質疑をかけていた。
ギルドナイトというのは、無論全員とは言わないが、居丈高になる者が多い。
高圧的な口調で旅人に質問しても、その態度から詰問のように感じてしまう事もない。
これらギルドナイト達による引きとめは、”剣門”などと呼ばれる事となり、人々から疎まれるようになる。
こういった事情から、熟練にして優秀なギルドナイトは分散する事となり、かつてのように精鋭部隊への補充が難しくなった。
メルミーユの親友でもあった蒼の隊長、ファイアスの訃報とともに届いた蒼の崩壊から約一年前。
それを皮切りに、桜、緑も損害し解体された。赤はかろうじて行動可能だが、かつての力はなく。
完全な状態を保っていたのは、メルミーユの所属する銀と、ブレイブに常置される金であったが、その銀も最近隊長を失ったのだった。
そんな中、新しい補充としてやってきた新隊長が、ラグダフルであった。
「全員、そろったな」
メルミーユは宿舎の食堂に全員を招集し指令の説明を始めた。
「今回の任務は雄火竜の連続討伐だ。近隣に村がある事から食料や薬品などの補給も可能。よって装備は重装だが、消耗品に関しては軽装でかまわない」
続いて土地の地図や、村の位置、ねぐらの推測地点、行動ルート、亜種の可能性などを説明していく。
『銀』の赤服メンバーは、一言として発する事なくメルミーユの説明を受ける。
誰一人として、この場に隊長であるラグダフルがいない事を疑問に思うも者はいない。
『銀』の実質の指揮官はメルミーユである。
メルミーユが黒服となったのは、今の隊長が就任したと同時だった。
それまでの隊長が殉死し、その代わりとしてやってきたラグダフル。
あの時の事は鮮明に思い出せる。
ラグダフルという男の詳細は事前に伝えられていた。
ギルド貴族リスラインの血族、その長男。ギルド内では比較的高い立場の立場メルミーユですら、実際に会った事はなかった。
期待していた。技量はもちろん、人物的にも素晴らしく、尊敬できる隊長なのだろう、と。
そしてラグダフルがやってきた、あの日。
隊長室に呼びだされたメルミーユは、そのドアの前で期待と緊張で高鳴る胸を押さえつけて、ノックした。
あくまで冷静に、自然に。隊長が変わる程度で動じるような副隊長では、頼りないと思われてしまう。
「入れ」
帰ってきた声は、凛々しさよりや優しさよりも、まず厳しさを感じさせた。
メルミーユが失礼します、とドアをあければ、隊長用の机に座っていたのは銀の髪を太陽に照らされた青年。
手には紅茶があり、その香りを楽しんでいるようだった。今までメルミーユが見てきた戦いに身を置く男達とはまったくの別物。
ほどよく肩の力を抜きつつも、緊張感を失わず、それでいて自然体。
女としてただ見惚れた。ずいぶんと久しぶりの感覚だった。
部屋に入るなり、立ち尽くしているメルミーユに、ラグダフルは。
「副隊長のメルミーユ、か?」
「あ、はい。失礼いたしました。メルミーユ=レインバルド、ただいま参りました」
「とりあえず、座れ。ああ、勝手ながら机の位置は変えさせてもらった」
見れば、昨日まで部屋の隅にあった自分の机が隊長の横に置かれていた。
何も知らないものが見れば、同格の人物の机が並んでいるように見える。
メルミーユは上官に意見するという緊張とともに、それを口にする。
「これは・・・お言葉ですが、その。これでは立場の違いというものが部下に対して・・・」
うまく言葉を選び濁したつもりだったが、ラグダフルはどうとるだろうか、とメルミーユはさらに緊張を高める。
しかし、ラグダフルは肩をすくめて。
「そう深く考えるな。お前も今では黒服だろう。まずその疑問から解消させてやろうか」
「・・・」
そう、現在のメルミーユがまとうは黒いギルド衣装。
本来ならば部隊長が与えられるものである。しかし、現在の『銀』にはラグダフルとメルミーユ、二人の黒服が存在する。
メルミーユは、この事に関しても説明があると思っていたが、それはすぐに明かされるようだった。
「俺はお前達の力を知らん。よってしばらくはお前に指揮をとってもらおうと思ってな」
「・・・」
「いずれ俺が指揮する事になるが、それでも黒のままだ。赤に戻る事はなく、ある程度の指揮権も預けるつもりだ」
「・・・」
予想外の解答に言葉を窮するメルミーユ。
自分達の力を信用されていない・・・という風でもなく、ただありのままと言った様子だった。
「メルミーユか。メルと呼んでもいいか?」
「え、あ、はい、どう、ぞ?」
「とりあえず座れ。こんな俺でも、女を立たせたままでは話しにくい。紅茶も用意した。ウチの執事に無理やり仕込まれたものだが、こういう時は役に立つもんだな」
この人はいったい何を言っているのだろうか? それとも自分は何か試されているのだろうか?
自分の机に座り、出された紅茶で唇を湿らす。
「さて、と。とりあえず言っておく事と、聞いておきたい事がある」
「はい」
「まず言っておく事だが・・・」
とたん、ラグダフルが真剣な表情となった。反射的に気を引き締めるメルミーユ。
やはり、さきほどのは初対面で緊張している自分をほぐす冗談だったのだろう。
対して自分は不器用な反応しかできなかったのが、恥ずかしいと思いつつ言葉を待つ。
「俺はなるべく、動きたくない。面倒な事も嫌いだ」
「・・・」
「そして聞いておきたい事は・・・メル、お前は上官が空ばかり見ていても動けるな?」
それ以上は思い出したくもないし、思い出す必要も価値も、記憶する事から無駄な会話が続いた。
しかしメルミーユはギルドナイトであり、ラグダフルはそんなメルミーユの上官である。
例えもし、あの場で体を要求されていても拒否は許されない関係だ。
そんな不安は杞憂に終わったが、期待も無残な形で砕け散った。
ラダグフル=リスライン。
ただの七光りで、無能。それがメルミーユが下した評価だった。
そして、今。
このように作戦会議にもラグダフルがいない状況となっているのだった。
「・・・以上。各員、質問はあるか?」
説明を終えたメルミーユはメンバーを見回すが、挙手する者はない。
やるべき事、それだけがわかれば事足りる、そういった精鋭達である。
あらためてそれぞれの役割を説明、変更することもない。
指揮は自分。
そして部隊にわずかに先行し、目標の飛竜を発見する斥候の役割である無音役。
目標の発見後は、追従する速射と呼ばれる役割のガンナーとタイミングを計り閃光玉を使用。
速射が麻痺弾をもって目標を一時的に無力化。無音役は状況により、ペイトンボールや落とし穴を併用する。
戦闘開始と同時に、剣風役が目標の攻撃力を削るために、羽根や尻尾へと攻撃を開始。
それにともなって、断頭役は目標の急所へと攻撃をしかけていく。
今までに何度も繰り返してきた手順であり、完成された役割分担だ。
無音による、完全な先制。
速射による、確実な無力化。
剣風により、目標は身を切り裂かれ。
断頭により、目標は身を地に伏せる。
そして副隊長は断頭を兼任する。ならびに隊長は指揮と予備戦力を兼任するが、現状は期待できない。
つまりメルミーユは戦闘の最中にあっても、指揮を継続するという難しい立場にあるが、そこに誰も疑問の余地はない。
前隊長が欠けてから今までの任務は、全てが成功している。
メルミーユ自身、自分の指揮の才があった事に驚くほどのものだった。
ゆえにメルミーユの「質問はあるか?」という問いは形式的なものでしかなく、つまりそれは会議の終了を告げるものであった。
だが、今回は違った。
「副隊長殿、一つ確認してもよろしいですか?」
「なんだ?」
立ち上がったのは銀でも古株の男。男は言葉を選ぶようにして。
「隊長殿の・・・立ち位置はどのようになるのでしょうか? いつもと同じ”監督”と考えてよろしいのですか?」
「・・・ふむ」
つまり、あの役立たずどころか足手まといは、実戦に参加するのかしないのか、という事だ。
今までは後方に設営したキャンプで、ただ座っていた。それならば問題はない。
ただ、今回は複数の火竜との連戦。気まぐれに指揮でもとられようものならば、無駄な損害をこうむる。
と、古株の男は暗に言っており、他の面々も同じ考えを顔に浮かべている。
「隊長からは特に何も命令は受けていない。ただ、よろしく、との言質は頂いている。よって、今回も私が指揮をする事となるだろうな」
皆、安堵のため息こそ表に出さないものの、わずかに緊張が緩む。
(敵よりも身内に懸念材料があるというのも考え物だな)
ふと。
メルミーユは思う。
もしもあの男が・・・もしも。
もしも・・・今回の任務で戦死したならどうなるだろうか?
銀の解体はありえない。蒼、赤の部隊が壊滅している今、銀は各国を飛び回る存在として不可欠。
すぐに補充として新しい隊長が配属されるだろう。
それがどんな人物であれ・・・あの男よりは・・・
そうすれば今よりももっと多く、もっと早く多くの民を救えるのではないのか?
力なき民たちが寄り添う村や街にとっては天災としかいいようのない、竜の牙から守ることができるのではないか・・・?
「副隊長殿? いかがされました?」
古株の男の声で我に帰る。
「・・・いや、なんでもない。では解散。各自準備を始めろ。」
メンバー達が出て行く中、メルミーユは身震いした。
(今・・・私は何を考えた? 忘れろ、忘れろ・・・)
恐ろしい想像を振り払うように、メルミーユは頭を何度も振った。
しかし、そのたびに・・・
(・・・民の為なら・・・)
想像はやがて。
「・・・」
メルミーユはあらためて、地図を見直した。
飛竜の目撃地点から予想して、戦闘になる可能性の高い場所。
そしてそれらの場所の中で、崖や河などが近い場所を。
つまり事故の起こりやすい場所を。
「・・・」
夜もふけた密林に設置された幾つかのキャンプ。そのテントの一つの中で、メルミーユは付近の地図を前に思考を続けていた。
「こうして・・・すでに三日か」
何も手がない状況で、ただ時間だけが過ぎていく。
任務を開始してすでに二十日以上の時間が経過していた。
当初の予想、その倍の時をかけてなお、銀は任務を達成していなかった。
四体のリオレウスの討伐はつつがなく成功。四つの村々にも被害はなく、銀の隊員達にも損害は皆無。
順調であり、銀の力の証明でもあった。
しかし、今。
三つの理由から、銀は行き詰っていた。
まず一つ目。
最後の任務と挑んだ最も危険度の高い村が、銀の到着時にすでに崩壊していた事から任務の難易度が跳ね上がった。
あたりは全てが火で焼け落ちていた。火竜が放ったものなのか、火竜を追い払おうとして村人が自ら使った火か。
どちらにしろ、すでにそこに人の姿はなく。
ただ、無残な光景だけが広がっていた。
確かに火竜の存在は脅威。
しかし、人が群れで暮らす村に火竜が襲い掛かることはきわめてまれだ。
個としての力は、群れにたやすく屈する。それがどれほど強力な存在であっても。
それをなしてなお舞い降りたという事は、その火竜の餌場が他の何かによって奪われ、飢えたという可能性が高い。
つまりこの火竜よりも強固な個が存在するという事。
ここにきて、討伐対象が増えるという状況となったのが理由の一つ目。
「・・・」
隊員達が荒れた村を調べ、村の傷跡から火竜の状態を探る。
出血の痕跡や、折れた牙や角、切断された尾がないかどうか。
火竜のダメージによっては、そう遠くない場所で体をやすめているだろうし、損害部分がわかれば、村を襲った竜かどうかの確認もとれる。
「副隊長殿・・・これを」
そして隊員の一人が、メルミーユのもとに一枚の鱗を持って現れた。
二つ目の悲劇がそれであった。
村を襲った竜のものであろうその鱗の色は・・・銀。
よりもよってリオレウスの中で。いや竜の中で最悪の相手。シルバーソル。
メルミーユは目を閉じ、思考する。
目標はこの鱗の主だけではない。このシルバーソルを餌場から追い出せる存在がまだ存在するのだ。
最も可能性が高いのは、二体目のシルバーソル。ただしさらに個体が大きいものだろう。
次の可能性は・・・と、自分の知識をさぐるが、思い当たらない。
これがシルバーソルでないのなら、他の竜種の可能性もある。
小柄なリオレウスであれば、他の竜種が圧倒する事は珍しくない。
しかしシルバーソルの存在において、そこに体躯の大小はあまり問題ではない。
となると、やはり二体目のシルバーソルと考えるのが妥当だろう。
「・・・厄介ね」
「まったくです・・・」
鱗を届けた隊員もメルミーユと同じ結論に至ったようだった。
シルバーソルとの戦闘経験は確かに銀にはある。
三度、対峙した。三度、討伐した。そして、三度、隊員の入れ替えがあった。
勝てる、勝てないではない。勝たなければならない。
逃げるという選択肢もない。逃がす事も許されない。
だから剣を振るう。剣が折れれば、その身を囮にし、他の隊員の盾になり、次につなげる。
そういう戦い方ならば勝てる、だからそういう戦い方を続けてきた。
しかし今回は、対象が二体。
一体だけならば、損害はあっても確実に討伐できると断言できる。
しかし、それではいけないのだ。どちらか一体を残せば、結局は同じ事。
このあたりは火山に近く、良質で希少な鉱石が多く産出される。
鉱石ほど今の時代に必要なものはない。
それに人が集まれば村になり、村がやがて街に至る。ギルドにとっても望むべく未来。
他の部隊ならば撤退も認められるだろう。この状況は隊の全滅すら容易に想像できるものだ。
しかしメルミーユの部隊は銀。それが三つ目の理由。
この任務の重要度は極めて高い。むしろ銀に課せられる任務は成功以外に許されるものは一つとしてない。
メルミーユは状況を把握し、一度、後方へ下がる指示を出した。
現状を把握し、状況を吟味し、打開策を模索する為の時間だ。
もはや守るべき村はないのだから、せめて時間だけは有効に使わなければならない。
そうして銀は、崩壊した村から離れてキャンプを設営し、休息しつつ案を練る事となった。
そして何の手立ても打てず、現在に至っていた。
「・・・」
メルミーユは地図をたたみ、自分の分身ともいえるランス、ゲイボルクを手にテントを出た。
焚き火の番、かつ見張りをしている隊員に異常はないか確かめた後、少し散歩をしてくる、すぐ戻るからと、と告げて歩き出した。
「副隊長殿・・・」
その背中を見送った無音役の隊員は夜の一人歩きなど危険だと止めるべきだったが、あえて何も言わなかった。
現状はかなり厳しい。しかし失敗は許されない。銀ともあろう部隊が、目標を前にして待機などこれまでになかった事だ。
「隊長がご存命ならば・・・」
むろん、ラグダフルの事でなく、前隊長の事だ。
あの隊長だったら、シルバーソルを前にしても有効な戦術を編み出したかもしれない。
無論、メルミーユにそれができないとは思っていない。
ただ時間がかかるだけだ。だから月を見上げ、頭を冷やすくらいの気分転換は必要なのだと。
しばらくして、テントからまた一人、こちらへと姿を現した人物がいた。
「おい」
「これは・・・どうなさいました、隊長殿?」
ラグダフルであった。
「副隊長がテントにいないんだが、知らないか?」
無音の隊員がさきほどの事を告げる。
「なるほど、メルは一人でお散歩か」
「は、すぐ戻るとの事です」
「エリート部隊のエリート副隊長、初めての挫折と苦悩、か」
「は?」
「なんでもない。俺も散歩だ」
手をひらひらと振って、ラグダフルもまたメルミーユが歩いていった方向へと消えた。
「・・・」
地位を利用して、副隊長に何かを強制させる気か?
こんな静かな夜だというのに、無粋で最低な男だ。
それがつい口に出た。
「下種野郎が・・・」
「あんたのような男には理解できないわ、ラルの魂は」
その声は背中から聞こえた。瞬間、自分の耳を疑った。
銀の部隊の無音を務める自分が、そんな距離まで接近を許すはずがない、と。
だが次の瞬間には、無音の隊員の視界は夜よりも黒く染まっていた。
メルミーユは湖の前に立っていた。
作戦前、あまり穏やかではない事を思案していた時に調べていた通り、そこには大きな湖が広がっている。
その静かな湖面には、夜空の満月が美しく輝いている。
メルミーユとて女だ。
髪にかかった土ぼこりや肌に染み付いた汗を流したいと思う。
しかし今は任務中で、ここは戦地とも言える場所。
そんな状況で、水浴びなど許されない。
それでも、静謐な湖はメルミーユを強く誘惑する。
「・・・」
悩んで。
メルミーユはその指先だけを湖にひたした。
冷たく、それでいて柔らかい感触が伝わってくる。
それがきっかけで、メルミーユの心が崩れてしまう。
全ての防具をはずし、衣服を脱ぎ捨てて、湖の中へ身をゆだねる。
「・・・」
夜空の月と湖面の月。二つの満月に抱きしめられるような感覚。
ただ水に身をまかせて、メルミーユは湖面に浮かんでいた。
解いた三つ網は金色の糸となり、四肢に絡まりつつも、わずかな波紋とともに八方へ広がっていく。
その中にあってメルミーユの肌は白く、月光に照らされて輝く。
やがて髪はクモの巣のようになり、メルミーユはそれに捕らわれた蝶のように。
メルミーユはずっと考えていた。いや、迷っていた。
シルバーソルを二体。
現実的に考えるならば、まず一体を討伐する。そして一度撤退し、損害を補完してから再度、戻ってくるというもの。
だがギルドの現状から考えて、補充兵がすぐに送られる事はないだろう。ただの部隊ではない、銀の部隊員なのだ。
また、補充兵が到着してからも、すぐには実戦というわけにはいかない。
他の隊員との息をあわせる為の模擬訓練や、場合によっては役割の変更とそれにともなう完熟訓練・・・
現実的といいながらも、まったく現実を見ていない。守るべき村はなくなり、時間があるとはいえ。
その時間をかけるだけ、新たなる村の誕生を遅らせる事になり、それは結果としてギルドの損失だ。上は認めないだろう。
「・・・」
もう一つ手はある。だが策といえるものでは到底ない。
正しいかと問われれば、間違いではないと答えるしかない。
民の為に。それが目的であり、手段は二の次だ。
たが果たして、それは正義ではないだろう・・・。
(・・・隊長を殺す)
全ての解決策だった。
隊長が戦死となれば、隊は撤退せざるをえない。
銀であっても、統制・指揮のない隊の力は激減する。
しかし隊長を失った場合は、副隊長が状況を見て任務の継続か撤退を選ぶ。
撤退ならば、即時部隊を再編して任務復帰というのが常道だ。
いたずらに隊を全滅させれば、それはただの犬死でしかない。
一時の撤退は任務の失敗ではない。隊を全滅させ、任務を継続不可能とする事こそが失敗だ。
むろん、これでも補充兵の問題が発生するが、メルミーユには考えがある。
ギルド貴族で、表向きは有能な剣士とされているラグダフルが戦士すれば、応援が期待できる。
補充兵ではなく、単純に部隊単位の増援。これならば、それぞれの部隊が一体ずつシルバーソルに全力であたる事ができる。
「・・・」
メルミーユは月を見上げたまま、もう一度、心の中で呟く
(隊長を・・・殺す・・・できるのか、私に?)
「ずいぶんと悩んでるな。女が悩む顔ってのは恋に迷うなら官能的ですらあるが、どうもそうじゃないみたいだ」
「!」
その声にメルミーユは横たえていた身をひるがえし、辺りを見回す。
ラグダフルの姿はすぐに見つかった。
メルミーユが脱ぎ捨てた衣服のそばの木にもたれかかっている。
「いい月だな。サボりたくなるのもまぁ、わかる」
「・・・ッ、隊長・・・いつから」
「艶っぽい脱ぎ方をするんだな、メルは」
「く・・・」
メルミーユは体を首まで水にもぐらせ身を隠す。
つまりずいぶんと前かに見られていた。むしろ、尾行され監視されていたということだろうか。
もしや・・・気づかれた?
メルミーユは自分の心中を誰にも話していない。表面にも出したつもりはなかった。
緊張感と疑心が渦巻き、ラグダフルの真意を確かめようとメルミーユは目を細める。
だが、ラグダフルは肩をすくめるだけだった。
「そう睨むな。俺だって男だからな。月夜の晩に綺麗な華が咲いてりゃ、黙って見てるしかない」
「・・・」
「この言い方がご不満なら、優等生のメルに納得させる言葉にかえよう。任務地で作戦遂行中、一人で隊から離れ水浴びとは問題だな」
「・・・う」
二人の視線が合わさったまま、無言の時が流れる。
メルミーユは自分の真意が悟られているのかと見極めようとし、ふと気づく。
こんな夜更けに、自分の跡をつけるようにしてやってきたラグダフル。
自分は女であり、彼は男であり。自分は部下であり、彼は隊長である。
そこから考えられる事は、そう多くない。普段ならば、嫌悪を示す行為であるし、ギルドの精鋭でもある銀の部隊内では起こってはいけない事 でもあるが。
「それで・・・隊長、私に何か御用でしたか?」
「咲いてる華があれば、愛でたくなるもんだろ?」
ああ、やはり。
メルミーユは安堵の表情を浮かべる。それが微笑みと勘違いしたのか。
「なんだ? お前もまんざらじゃなさそうだな」
「・・・私は部下ですから。隊長が気にかけてくださった事をうれしく思っているだけです」
今までにも同じような事はあった。メルミーユとて、最初から精鋭部隊に所属していたわけではない。
少なくとも、目の前で笑っているギルド貴族と呼ばれるような家柄の男には、決してわからない苦労をしてきた過去がある。
だから、さきほどの言葉はいつもどおりの定型分だ。相手の意にそい、相手を受け入れる為の言葉ならざるただの音のつながり。
「ふ・・・」
ふと。
メルミーユのその言葉を聞いたラグダフルの笑顔が変わった。
いつもの怠惰な笑いではなく。初めて見る優しい微笑み。
「冗談だ。そろそろあがったほうがいい」
「え・・?」
「お前がこれまでどんな上司にあたってきたかは知らん。そして、そいつらがお前に何をしてきたかも知らん」
「・・・」
「だが忘れろ。今は俺がお前の隊長だ、腐ったギルドの風習なんぞ身に染み付かせるな」
「・・・」
確かに言った。ギルドを否定するような言葉を。
これだけでメルミーユはラグダフルを殺す理由になると思えるほど、断言した。
だが、ラグダフルの言葉は続く。
「まぁ確かに女は好きだがな、抱くのはこんな土ぼこりの戦地ではなく、華を飾った白いシーツの上だけと決めてるんだよ」
「・・・キザですね、ずいぶんと」
「だが女はそういうのが好みだろう?」
「どうでしょうか。あいにく私には、そういった経験はありませんので」
「なら、任務が終わったら、花束を持ってお前の部屋をたずねよう」
「わかりました。楽しみにお待ちしています」
メルミーユは結局、この男もギルドの風習に染まっているではないかと卑下する。
ただ自分の好みで、女を抱く時すらも、そのお綺麗な服を汚したくないだけど。
しかし、続くラグダフルの言葉は、さも楽しそうに。
「俺も楽しみだ。俺の頬に平手が見舞われるか、唇が寄せられるか、どっちになる事か」
「・・・?」
「お前の好きな華でお前の部屋を埋め尽くして、お前の好みの紅茶や菓子を用意して、ご機嫌をとる作戦にするか」
「え?」
「それとも今夜のように月の見える部屋をとっておいて、花びらをあしらった招待状をお前に届けるか。なかなか迷うな」
「・・・おっしゃる意味がわかりません」
「なんだ、どっちも好みじゃないのか? 華の代わりに石がいいか? だが、お前の金髪よりも美しい宝石なんぞ俺は見た事ないぞ?」
「う・・・う?」
「あきれるな。美しい金髪、透けるような青い瞳、絹のような白い肌。それ以上お前は自分を着飾る気か? 美の女神にでもなる気か?」
からかうように笑うラグダフル。
鈍いメルミーユにもようやくわかる。
自分は一人の男に一人の女として口説かれているのだと。本気かどうかはわからない。
けれど、今、この場は、ギルドのしがらみが一切持ち込まれない、ただ男女の機微だけの世界。
・・・だから否定した。
それはたとえ戯言でもメルミーユには辛すぎる世界だったから。
ただ命令されて差し出すならば、恥ずべきものはない。
けれど自分に女としての価値があるのかどうかは、自分がよく知っている。
甘い言葉の駆け引きに見合うだけの掛け金は自分にはないのだと。
「違います。私は・・・その」
「なんだ? なんでも言ってみろ。お前みたいな女をモノにできるなら、男はなんでもするぞ。俺は幸運だな、その機会を得られたんだから」
「違います!」
強く否定した。
「何が違う?」
「私の髪は竜の血を何度も浴びました」
「ギルドナイトの誉れだな」
「私の瞳は竜の死を何度も見てきました」
「有能な証拠だ。強さの証明でもある」
メルミーユはそんな賛辞を受けても、ただ首を振る。同時に涙があふれてくる。
今は、ギルドナイトとしての評価など、どうでもいいのに、と。
確かに否定した。甘い言葉のやりとりを。
けれど、本心は。
メルミーユは望んでいた。無意識に。
今、この男と女の時を否定していた、その本当の心は怖かったから。
「私の・・・私の体は、竜の牙や爪を受けて・・・傷だらけで・・・女として見られる体などではないのです」
「・・・」
ラグダフルは微笑みを消す。
せめて否定してほしかった。せめて望んでいたのは、女として見られる事だったのに、それすら。
「さきほどご覧になったでしょうけれど・・・この右腕の傷は自身の力を慢心してブレスに焼かれた痕です」
ラグダフルに差し出すようにした右腕には、重度の火傷の特徴的な傷跡があった。
「左肩には、爪にえぐられ、つぶされた痕です。おそらく骨もゆがんでいる事でしょう」
メルミーユは立ち上がり、全身をさらしたメルミーユは笑いながら背をラダグフルに見せる。
「そして・・・この背中を走る大きな傷はまだ未熟な頃に、雌火竜につけられたもの」
確かにその背には大きな傷跡があった。
左肩、その肩甲骨のあたりから、右腰の下まで刻み付けられた傷。
メルミーユは背後のラグダフルの言葉を待った。
だが、一言でも良かった。たわむれでも気まぐれもでもいい。「そんなことはない、気にするな」それぐらいの社交辞令でもいい。
けれど、無言。
メルミーユはふ、と自嘲する。
ラグダフルは隊長として、自分を激励していてくれたのだろうと。それを勘違いして、動揺して、くだらない事を自分が口走っただけだ。
ラグダフルに非はない。むしろ七光りだなんだと馬鹿にしていた自分だが、感心すら覚えた。
戦場でこういった気遣いをできる者は多くない。隊長としての戦力は確かに期待できないが、こういう部分は素晴らしいとも思った。
「・・・申し訳ありません、取り乱してしまいました」
それでも背を向けたまま、月を見上げていたのは。
ギルドナイトとして名誉の負傷とされるこの背は。
甘えとも言える自分の中の女が流す涙を、ラグダフルに見せる事に比べれば、どうという事のないものだから。
と。
メルミーユの体を包む湖面に、波紋が生まれた。
それは後ろから、一つ、また一つと円を描く。しだいに大きく、強く、それは近づいてくる。
「・・・あ」
振り向くまでも無くわかる。ラグダフルはその身をメルミーユと同じく、湖の中へひたしている。
一歩、また一歩とメルミーユの背に歩み寄ってくる。
涙を止めなければ、体の震えをとめなければ、そう思うほどに、メルミーユの全身が痺れていく。
その痺れは期待。
きっとラダダフルは自分を慰める言葉をかけてくれるのだろうと。
どんな些細な言葉でも、きっと今の自分は喜んでしまうだろう。
それが怖い。その程度で崩れるギルドナイトとしての自分の脆さが怖かった。
しかし、それ以上に女としての自分が、彼が歩み寄る事に嬉しさを覚える。
やがて、ラグダフルがメルミーユの背、そのすぐ間近で止まった。
メルミーユの体はまだ震えたまま。さきほどはただ力なく下げていた両手を、今は自分を抱きしめるようにして。
待っている。女として、男の言葉をただじっと待っていた。
ラグダフルは、ようやく。
だが、それは言葉ではなかった。
「ッ!?」
気づけば。
メルミーユは鋼の如き、男の胸中にあり。
体がきしむほどの力で、抱きしめられて。
ただ、唇を奪われていた。
拒む事も抗う事もできないほどの力は、嵐の如く荒々しく。
ただ目を見開いたまま、メルミーユはすぐそこにある男の顔を、目を見ているしかなかった。
ラグダフルは瞳を閉じていない。
唇だけではなく、メルミーユの心も奪おうと、むしろ屈服させようと鋭く見つめている。
「う・・・」
やがて、それをメルミーユは受け入れた。
メルミーユは瞳を閉じ、ささやかな抵抗とばかりにこわばらせていた体から力を抜いた。
途端、ラグダフルの締め付けるような両腕から力が抜け、それは抱擁というべき優しさにかわる。
そう、それは優しさ、メルミーユが初めて男から受けた優しさだった。
「・・・」
どれほどの時間かはわからない。一瞬だったのか、長い時がたったのか。
唇の柔らかさが離れると、メルミーユはおそるおそる目を開ける。
「・・・あまり体を冷やすな。もうあがれ」
それだけを言ってラグダフルは湖の外へ歩いていく。
ラグダフルは背を向けて、少し離れた場所に座り込んだ。
力ずくで唇を奪う男にも、女性の着替えを見る悪趣味はないとラグダフルは笑う。
メルミーユにすれば、どちらも十分悪趣味だと思うが、とにかくまずは服を手にと水からあがった。
すばやく服を身につけると、背を向けたままのラグタブルに声をかけようとして。
なんと声をかければいいかわからないが、とにかく今の行動はどういう意味かとたずねたかった。
わかっている。慰めだという事は。けれどそれを言葉にしてもらいたくて。
女として、まだ自分は女であるという証を得たくて・・・ふと・・・気づく。
(・・・今なら?)
ランスは・・・ある。
人目は・・・ない。
「まだか?」
「は、はい・・・すみません、もう少し・・・」
ラグダフルは背をむけたまま。
今ならば。
(隊長を・・・殺せる)
女という甘えが飛んだ。ギルドナイトとしてのメルミーユが現状を把握する。
それが自分の本質だと、自分の体が応えるように冷えていた体に熱がこもる。
冷水で収縮していた筋肉に血がめぐり、臨戦態勢となっていく。
それにともない、心もすでに切り替わっている。
死体はどうする? 刀傷が残る。湖? 沈める? だめだ、他の隊員に自分がこちらへ来るのを見られている。
どうする? 次の機会を待つ? 次の機会・・・? 私は決めたのか? 隊長を殺すと決めたのか?
違う。まだ決めてない。まだ違う。だが、今を逃してまた機会が来るのか? 時間が過ぎるだけかもしれない。
撤退して再編から、また戻ってくるまでに他の村々まで被害が及ぶかもしれない。だからこそ、時間がない。
他の隊員にはどう説明する? ・・・説明? 必要ない。隊長が消えれば私が隊の責任者となる。
ギルドナイトが命令を下されれば、従うのみだ。説明はいらない。ただ私が撤退と命令すれば済む。
感づく者がいたとしても、それはそれで何も言うはずがない。私の判断が正しいと思うだろう。
正しい? 何が? 隊が隊長を失ったならば、撤退は正しいが、私が行おうとしているのは、隊長を殺す事だ。
違う、正義じゃない。けれど、そうでなければ・・・また竜が村を襲う・・・子供が親を失って・・・
泣いて・・・泣いて・・・泣いて・・・誰も慰める者のいない村でひとりぼっちで・・・・
私だからわかる、私だから、私が、私が・・・
「まだか?」
「あ・・・あ・・・」
ラグダフルはため息をひとつ。
「あと十も数えればいいか?」
そう言って、ラグダフルは律儀に数え始めた。
十。
メルミーユの心が揺れる。その揺れが体へも伝心し、全身が震える。
九。
震えた手で、なんとかゲイボルクを掴み取る。握り慣れたはずの柄が、どうして今夜はこうも滑るのか。
八。
ランスは手にした。けれどヒザの震えだけが一層と強く激しくなる。とてもとても歩けない。
七。
視界がぼやける。呼吸が苦しい。隊長の背中はすぐそこ。いつもなら一秒あれば、この穂先で貫ける距離。
六。
遠い。隊長が、目標が、遠い、遠い。ランス・・・ランスを私はしっかり握ってる? 手の感覚がない。
五。
私は何をするつもり? 何をしたい? 何をする為にギルドナイトに・・・なったのよ・・・
四。
涙が止まらない。体は動かない。
三。
そうだ・・・もう・・・村を壊れたくないから・・・父さんを、母さんを、姉さんを食った竜が、竜が・・・
・・・もう私みたいな子を・・・増やさない為に・・・ギルドナイトに・・・
二。
そうだ。私は・・・ギルドナイト! 力なき人たちの為に!
メルミーユの目から迷いが消える。ラグダフルはまだ背を向けていた。
(一秒あれば充分)
駆け出した。
体の震えなどない。地をえぐりこむかのように疾駆する足。
心の迷いなどない。目標の背中から微塵もはずさない穂先。
けれど一瞬。
唇に触れた、暖かく柔らかい感触が思い出された。
それも一瞬。
唇に歯を突き立て、柔らかさを血の味でかき消した。
一。
民の為に!!
「うわああああ!!」
全ての想いを吐き出すようにして、メルミーユはランスをラグダフルへと突きたてた。
続く
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